本記事では、Bitcoinにおける「トラスト」とは何かについて、その概念を整理しながら考察します。 初期のBitcoinが掲げていた、フルノード運用やセルフカストディを重視する姿勢がどのような背景から生まれ、どのように変化してきたのかについても振り返ります。
また、近年のウォレットサービスが決済体験の向上を重視するようになり、部分的なトラストを前提とするモデルへと移行しつつある現状について、その要因を私なりの視点で検討します。
トラストの定義
そもそも「トラスト」とは何なのでしょうか?
日本語に直訳すると「信頼」となり抽象的な用語という印象を受けます。しかし、トラストはコンピューターサイエンスの分野でも近年重要な概念として再整理が始まっている用語でもあります。
「トラスト」は哲学、心理学、経済学などのさまざまな学問分野で議論の対象になっており、分野ごとに定義がブレているので一言で表すのは難しいです。本記事においては筆者自身によるトラストそのものの定義に関する論考はしません。
学術的にはロジャー・メイヤーのトラストの定義がよく引用されるようです。
The definition of trust proposed in this research is the willingness of a party to be vulnerable to the actions of another party based on the expectation that the other will perform a particular action important to the trustor, irrespective of the ability to monitor or control that other party.
(本研究で提案する信頼の定義とは、監視や制御の能力にかかわらず、他者が信頼者に重要な特定の行動を実行するという期待に基づき、当事者が他者の行動に対して自らを脆弱な状態に置く意思である。)
トラストの定義を緻密にし始めるとトラスト沼にハマってしまうので、本文章におけるトラストの定義は、「第三者への暗黙的な依存をした状態」程度のざっくりしたものとして捉えて話を進めます。
Bitcoinとトラスト:影響元を考える
Bitcoinにおけるトラストの位置付けを整理していきます。この記事を書くにあたって、Bitcoinコア・コミュニティにおけるトラストの明確な定義について、ソースとなる資料や議論を探してみたのですが、筆者は見つけることができませんでした。そのため、「Bitcoinとトラストの関係」に影響したであろう思想やキーワードを元に考えてみます。
「サイファーパンク運動」の影響
Bitcoinの設計思想には、サイファーパンク運動が大きな影響を与えていることは有名です。サイファーパンク運動とは、暗号技術やプライバシー関連の技術を重視し、政府や企業による監視・中央集権から個人を守ることを目的とした1990年代の活動・運動です。サイファーパンクの詳細に関してはフルグルの練木 照子さんが記事にされているので、そちらを参照してください。
仲介者による監視や検閲、または制御に対抗し、暗号技術とオープンソースコードによる中央機関に依存しないシステムの構築を目指したという意味で、Bitcoinのトラストに影響を与えたと推測することができます。
“Don’t Trust, Verify”

Bitcoinに触れていると一度は「Don’t Trust, Verify」という文言を聞いたことがあると思います。Bitcoinにおけるピアを暗黙的にトラストするのではなく、自身で検証しろという意味合いで使われることが多いです。ただこの文言はBitcoinのホワイトペーパーで登場した単語ではなく、明確にはその起源が分かっていないようです。
しかし、ホワイトペーパーのIntroductionでは冒頭から既存金融における第三者をトラストし仲介した取引における問題点を指摘した上で、暗号を用いることで第三者へのトラストを必要としない2者間取引が可能になると書かれています。
What is needed is an electronic payment system based on cryptographic proof instead of trust, allowing any two willing parties to transact directly with each other without the need for a trusted third party.
(必要なのは信用ではなく、暗号学的証明に基づいた電子取引システムであり、これにより 信用の置ける第三者を介さずに、利用者間の直接取引が可能となる。)
既存金融のアンチテーゼとして、決済における第三者の仲介に発生する「トラスト」を最小化したいというモチベーションがあることが見て取れます。そのため、決済の確定において中央を介しないProof of Work(PoW)のような構造が取られたのだという推測は容易です。
“Trustless Trust”
Bitcoinのようなブロックチェーンシステムの議論のなかでLinkedInの共同創業であるReid Hoffmanは ”Trustless Trust” と呼ばれる概念を提唱し、広く参照されるようになりました。
トラストレスという用語は誤解されがちですが、完全に信頼が不要になるということを意味しません。Bitcoinにおいては、ブロックチェーンネットワークの参加者である他者のことを信頼せずに決済機能が成り立っている状態のことをトラストレスと呼ぶことができます。
Bitcoinにおけるトラストレスな仕組み
Bitcoinにおいて具体的にどこがトラストレスなのか、設計や運用上の仕組みをいくつかピックアップして簡単に解説します。(周知の内容が多いため、本記事では簡潔に述べます。)
セルフカストディ・セルフホスティングな運用
ノードをそれぞれ個人が運用し、取引事実の履歴を自身で確認することができます。また、秘密鍵を個人が管理することで自身の資金を他者には動かすことのできない決済システムを実現しています。
Proof of Workによる合意の実現
多数決ではなく、不特定多数による計算処理の競争を元に、「決済が最終的に完了し、取り消し不可能である」というファイナリティを得ます。人や組織の権威によって取引情報の合意をとるのではなく、個人が運用するソフトウェアも合意の形成に貢献するという意味で、他社の仲介を排除したトラストレスな取引が実現されます。
Blockchainと暗号技術の利用
ブロック単位でのハッシュチェーン構造により、またブロックに含まれるトランザクションはデジタル署名により、改ざん耐性が付与されています。不整合や悪意のある取引のバリデーションができ、他者をトラストせず取引事実を確認することができます。
Lightning Networkはトラストレスか?:LN中心性の問題とトラスト
Lightning Network(LN)はトラストレスと言えるでしょうか?
LNのプロトコルはトラストレス性を意識して設計・実装されています。Layer 1であるブロックチェーンの性質を活かしながら、Bitcoinにおけるプログラミング言語であるBitcoin Scriptを用いたトランザクションを交換するプロトコル設計がされています。これにより第三者のトラストを必要とせずとも、決済における不整合な状態が起きない(アトミックな)取引が可能になっています。そのため、フルノード/LNノード/ウォレットを個人で運用している限りはトラストレス性は担保できます。
LNの普及が広まる中で、Lightning決済を取り巻く環境がトラストレス性を維持できているでしょうか? その回答としてはトラストは最小化しつつも、Layer 1ほどのトラストレス性は実現できていないというのが現状というのが筆者の考えです。
その要因の一つとしては「LNの中心性の問題」が挙げられます。以前の記事でLNの中心性が問題になっていることについて記事を書きました。

巨大なCapacityを確保しているLNノードが流動性ハブとなっているため、ハブがLNにおける取引の安定性を担保しているという意味で、ハブとなるLNノードがトラストされているという見方もできるかもしれません。
また、中継者が取引を中断や遅延することができるという意味では、”サービス妨害攻撃”が起こる可能性があり、流動性ハブの存在に暗黙的に依存することで決済の安定性が担保されているという点でもトラストが発生しているとという見方ができると思います。
ただ、流動性ハブを中継に利用するか否かはあくまで選択肢であり、トラストというより「期待通りに機能するか」という意味で 信頼性 (Reliability) という表現が適切ではないかという見方もあります。流動性ハブが突然無くなった場合でも、LNのプロトコルでは最終的に自分の資産を守ることができ、また決済が完全に止まる訳ではないため、メイヤーの定義を参照すると「脆弱な状態」を他人に晒しているわけではないからです。
Lightning Networkの立ち位置: あくまで選択肢の一つ
上記で述べたような、トラストレス性について議論の余地があるLNは、Bitcoinエコシステムにおいてどの様な立ち位置なのでしょうか? 結論から言うとLNはBitcoinのアプリケーションの一つであり、選択肢の一つでしかないと言うのがコミュニティにおける認識だと思います。
LN の利用はあくまでオプションであるため各ノードはLNに参加するかどうか選べ、LNを使用しなくてもBitcoinの利用や保有を拒絶されないような設計がなされています。
Lightning Service Provider(LSP)一体型ウォレットの普及
LNの問題点であるノード運用のハードルが高さを緩和するため方法として生まれたのが、Lightning Service Provider (LSP)一体型ウォレットです。
LSPとはLNユーザーに安定したノード間のピア接続、簡素化されたチャネル管理や流動性を提供する企業などの組織のことを言います。
そんなLSPが提供するウォレットサービスである「 LSP一体型ウォレット」は、ユーザー自身が秘密鍵を管理し、手間であるチャネル管理や流動性の提供をウォレットサービスの運営会社が担うというものです。この方法では、あくまでセルフカストディを実現できているため、サービスの運営会社が倒産や不正を働いた場合でも、ユーザー自身の資金は守ることができ、他のLNノードに接続することで再び送金能力を回復することが可能です。LSP一体型ウォレットの具体例としてはPhoenix WalletやBreezなどがあります。
LSP一体型ウォレットを含むLNウィレットについては以前に加藤規新さん、東晃慈さんらが記事にされています。
「LSP一体型ウォレットは、LN普及前においては、全てのユーザーによるフルノード運用が理想とされ、それ以外の妥協案は初期のBitcoin文化では受け入れられない選択肢だったと思います。
「Don’t Trust Verify」から部分的トラストの許容へ
LSP一体型ウォレットの登場と普及は、Bitcoin におけるトラストのあり方に変化をもたらしつつあると筆者は捉えています。
オンチェーン送金の安定性への信頼が徐々に形成され、さらにBitcoin エコシステム内の利害関係が以前より明確になりつつあることで、「どのサービスを信頼するかをユーザー自身が選び取る」文化が生まれつつあるように感じています。
加えて、フルノード容量は現在 700GB 近くに達しつつあり、処理能力の乏しいデバイスでの運用は現実的とは言えなくなっています。そのため、完全に自前で全てを運用するという理想像を維持するには相応のコストや環境が必要になり、ユーザー側も一定の妥協や選択を迫られる局面が増えてきたことも、この流れを後押ししている要因だと考えています。
LSP一体型ウォレットの特徴は「送金体験において一部をサービスプロバイダーをトラストする一方で、ユーザーはいつでもサービスからの退出が可能であり、ユーザーの自己資金は守ることができる」というところにあります。この特徴が後に続く、ArkやSparkの普及に影響していると考えられます。
新しいオフチェーンプロトコルの登場とトラストモデルの変容:Ark, Spark
ArkやSparkといった新しいオフチェーンプロトコルへの注目と普及です。ArkはArkade, secondなどによるウォレット開発が進んでおり、SparkはWallet of satoshiに採用されています。ArkやSparkの詳細については加藤規新さんが記事を書かれているため本記事では詳細の説明は省略します。
Ark と Spark はいずれも「ユーザーがフルノードやチャネル管理を行わなくても、高速かつ安価な支払いを実現する」という点で、LSPモデルと同じ問題意識を共有しています。
どちらのプロトコルも、最終的にはユーザーの資金を保護できる設計を持ちつつ、サービスプロバイダーへの部分的なトラストを前提として UX を大幅に改善する点が特徴です。
先日行われたBitcoin Japan 2025 Dev Dayでも「Ark」「Spark」は度々名前が上がっていました。そして、これらと関連付けて多用されていた用語が「マーケットドリブン」です。
Bitcoinは普及のフェーズに入り、より広く日常的に利用されるためにユーザーの目線に立ったプロダクトが求められています。
しかし、サービスプロバイダーへの部分的なトラストは、初期のBitcoinでは決して受け入れられなかったものだと筆者は捉えています。現在もこれらの新しいプロトコルに拒否反応を示すBitcoinerがいるのも事実です。
ArkやSparkのような新たなプロトコルはあくまで新たな選択肢を提示しているだけです。受け入れられない人はLNウォレットを選び続けることができ、LNの集中化構造などに対する危機感を抱くユーザーはオンチェーンでの送金を選び続けることができます。
また、選択肢が広がることでユーザーも分散します。初期の頃とは違い、多様なユーザーがBitcoinに興味を持ち参入してきたと楽観的に見ることもできます。
まとめ: 変容しつつあるBitcoinトラスト
| レイヤ / モデル | 他者へのトラスト | トラストレス性を担保する代表的な仕組み | 何を信頼する必要があるか |
|---|---|---|---|
| Bitcoin (Layer1) | 最小 |
|
|
| Lightning Network | 小さい |
|
|
| LSP一体型ウォレット | 大きい |
|
|
| Ark / Spark | やや大きい |
|
|
Bitcoinは当初、フルノード運用とセルフカストディにより「Don’t Trust, Verify」を実践し、第三者への依存を最小化するトラストレス性を重視してきました。しかし、ノード容量の増大やLightning Networkの運用負荷、より良い決済体験へのニーズなどにより、理想を維持することが難しい場面が増えてきています。
この課題を解決する形で、LSP一体型ウォレットやArk・Sparkといった新しいオフチェーン技術が登場しています。これらは利便性と自己主権の両立を図るアプローチであり、部分的なトラストを受け入れる設計が普及しつつあります。
オンチェーン中心でも、Lightningでも、新興プロトコルなど、選択肢が増えたことでユーザーは自身がどの範囲でトラストを許容するかを選べるようになりました。
総じて、Bitcoinは「完全トラストレスな理想」から「ユーザーが主体的にトラストを選択する実用フェーズ」へと移りつつあると言えます。
終わりに:トラストに関する議論の成熟への期待
今回の記事はかなり抽象的な議論になっており、明確な定義がないテーマなので、解釈の幅がある点が多々あると思います。この記事では批判的なご指摘を歓迎します。
昨今、政府やBig Techによって制度やシステムなどのモノ・コトに対するトラストする/できない対象を半ば強制的に強いられ、拒否権なく決められてしまう状況が増えてきました。一方でBitcoinのエコシステムにおいてはトラストする対象をコミュニティまたは個人の判断によって選択できること、さらに時代に応じてトラストする対象やトラスト基準を変容させることができることがBitcoinの真の強みだと筆者は考えています。
しかし、Bitcoinにおいてトラストは重要なテーマでありながら、整理された議論が積み重なっておらず、基準が曖昧になってしまっていることは重要な課題の一つだと筆者は考えています。本記事が議論のきっかけになれば嬉しいです。
また、今回はあえて触れませんでしたが、Bitcoinとトラストを語る上で重要な「BitcoinのDNSシードの存在」について、次回記事で投稿を予定しています。
参考文献
[1] 中島秀之編, 信頼を考える: リヴァイアサンから人工知能まで. 東京: 勁草書房 : https://www.keisoshobo.co.jp/book/b371303.html
[2] 栗田昌宜 他, ブロックチェーン技術概論: 理論と実践. 東京: 講談社サイエンティフィク: https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000353684
[3] A. M. Antonopoulos, Mastering Bitcoin: https://github.com/bitcoinbook/bitcoinbook
[4] A. M. Antonopoulos, R. Osuntokun, 他, Mastering Lightning Network. オライリー・ジャパン. https://www.oreilly.co.jp/books/9784814400140/
その他の参考文献は文中にリンクとして記載しています。
