先週にひきつづきNFTについて書きます。
先週からNFTの販売額が急落しています。これがブームの終わりなのか、一旦のお休みなのかわかりません。価格面は今回は取り上げないのでどうでもいいといったらどうでもいいです。
https://news.yahoo.co.jp/.../57ce52ff1b69f207282313530c7b...
さて、前回のコラムではNFTが美術としての文脈、コンテクスト、ステートメントといったものを一切もっていないということを指摘しました。
たんなるパチンコ台の大量供給に過ぎないのですが、美術業界側は過剰に反応してしまっています。
たとえば今月号の美術手帖(老舗の美術雑誌)も、真面目にNFT評論をおこなっています。
なぜそうなってしまうかというと、美術評論家がNFTやクリプト周りについてさっぱりわかっていないため、これほど醜悪でScamでしかないことを想像もできないのです。
ですので、パチンコ台について、美的価値を真面目に評論してしまい、滑稽にみえてしまうのです。
美術界のデジタル対応の遅れと焦り
また、美術業界のデジタル対応がおくれている焦りみたいなのは背景にあります。主なセールスチャネルであるギャラリーはデジタル対応は殆どされていませんし、デジタルリテラシーは驚くほど低いです。驚くほどというのは、本当に驚くほどのレベルです。そこで、デジタル系の盛り上がりを横から見て、非常に焦ってしまっているというのが現実です。
その焦りがNFTなどへの過剰評価を生んでいるのだとおもいます。
ただ、西洋の美術の文脈というのはルネッサンス以降脈々とつながっていて、一朝一夕には評価基準やコンテクストが変わるとは思いません。非常に強固な文化なのです。いくらデジタル勢がマネーで圧倒しても、平然としていればいいのですが、やはりそれでも現状のデジタルへの対応のおくれに相当に焦りが有るのでしょう。
NFTの美術としての可能性とは?
さて、ではNFTが美術として成り立つにはどうすればいいのか?ということを少し考えてみます。